2010年2月6日 (土曜日)
やまさ海運株式会社のマルベージャ3号で軍艦島上陸コースに行きました。
http://gunkan-jima.com/index.html
予定時間 13:40~16:30
滞在時間40分
軍艦島の海域は波が高く 上陸できる確率は3割
特に寒い時期は難しいということで心配でしたが上陸することが出来ました。
軍艦島の浮き桟橋は、2度流されて今使っている桟橋は3度目の正直だそうです(笑
前回の記事 https://momoneko.moe-nifty.com/blog/2010/02/post-8a92.html
長崎港の乗船券売り場 ここで島内の行動についての誓約書を提出
島ではトイレは無いので船で済ませること
島では、タバコ、お酒、傘、ハイヒール、子供の上陸、ペットの同行すべて禁止
パンフレットと乗船券、上陸券
もし上陸出来なかったときは上陸券の300円は返金される
長崎港を出港して約1時間 軍艦島の東側の姿が見えてきた。
軍艦島までの景色の案内は船の右側を中心に行われるので
写真を撮影する方は右側に乗った方が良いです。

長崎港から南西に15.5Kmの沖合いに到着
かなり揺れていましたがが船酔いしなくて良かったです。
ドルフィン桟橋を目指して 着岸
イルカのように浮き沈みする浮き桟橋なのでドルフィン桟橋と命名されたらしい

この中央の建物の辺りの地山が元々の島の大きさでここからボタで埋め立てて
軍艦の形の島に成長した。現在の軍艦島の約1/3程度の大きさだったらしい
島内では、二班にグループ分けされて団体行動
ルールを守れない人は即 船へ逆戻り

風雨に耐えてきた 立派なコンクリート建造物
島の大きさは周囲1.2Km
ピーク時の人口は5200人 世界一人口密度の高い島だった。
体育館、小学校、中学校の跡地
土地が少ないので下の階が小学校、上の階が中学校
屋上には幼稚園も建設されたという
洒落たレンガ造りの壁が残っていた。
裕福な島だったので最高水準のコンクリート建造物が多く作られ
島には映画館、パチンコ店など生活に必要なものは何でもあり
当時、珍しかったカラーテレビも一家に一台有ったという。
その頃のテレビは一台ごとにアンテナが必要だった為アパートの屋上はアンテナの林が出来ていたと言う

島の高台にある給水タンク 船で水を運んでここに貯めていたと言うが
人口の増加に伴い水・、電気が不足したため海底トンネルで水と電気の供給を受けていた。
残された階段は、第二竪坑坑口桟橋跡
この階段を上ってエレベーターで約600mの地下に降りてそこから採炭場まで約1時間の道のり一度入ると帰って来れない危険性も多かったのでこの階段を上る工夫の姿は緊張に包まれていたという それに反して帰ってくる姿は皆にこやかだったらしい
積み石を固定するために使われていた赤色の土は中国から輸入した物で
今も風化しないで石と石を固定している。
セメントで固められた部分は完全に風化して崩壊している。

島の豊かな暮らしに反して坑内での仕事はガス爆発、落盤など危険と背中合わせで
坑内で交わされる挨拶は『ご安全に!』
この挨拶には、絶対に事故を起こさせないという願いが込められていたという
現在の工場でも挨拶に『ご安全に!』っと言うけどこれ程までの思いが込められているかな~?
『ご安全に!』の発祥の地だろうか

中央部の灯台は島民が居なくなった昭和49年から島の明かりが消えたため
昭和50年から灯台が灯った。
今はソーラー電源で点灯している。

島の西側は、防波堤超える10m以上の波が打ち寄せるので
西の端の建物は防波堤も兼ねていたらしい
島には台風も多かったので島民は頑丈島内で高波見物というものをしていたという
建屋の中に植物が生えていた。
軍艦島には土が無いため植物が生えてなく
子供が朝顔を知らなかったという
そこで屋上に菜園を作り植物を育てていたという
これが日本発の屋上菜園らしい
海水を利用した25mプール
週に2回の海水の入れ替えを行っていたという

島には無いものは無いと言われていたが火葬場とお墓は無かったらしい
遺体は近くの島で火葬され島内のお寺の納骨堂に安置された。
お寺は元々禅宗でしたがどのような宗教でも受け入れると言うことで
禅宗から全宗に改名したという

西側から見た島の姿
この方向から見た島が戦艦(土佐)に似ているらしい
戦艦土佐は、1922年(大正11年)の軍縮会議「ワシントン条約」で米:英:日の主力艦の所有率を『5:5:3』とすることに決まったため条約を守るため4隻目の戦艦土佐を実船標的として土佐湾に沈めたらしい このデーターが後の戦艦大和の設計データーに生かされたという

島の高台に風雨に耐えている神社の祠が在った。
見た目に頑丈そうでもない祠だけど何年も風雨に耐え島を見守っている
ちょっと不思議な感じがした。

島の西側 こちらは特に波が高い
そのため船着場は反対の東側に設けてある

病院の病棟や隔離病棟なども残っている

それにしても立派な建物
良く解体されること無く残っていてくれたな~
島の東側を見ながらお別れ・・・・

今回の上陸コースで乗船したマルベージュ3号
日本の高度成長期 特に北九州、山口の産業を支えた長崎市 端島
貴重な文化遺産を目にすることが出来ました。
感動しました。
2010年2月6日(土曜日)撮影
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